動きの不確実性

クリストフ・シャルル


音楽はしばしば単に音の芸術として捉えられ、音の性質と関係、長さのみが扱われる。音と時間にのみ注意が払われ、与えられた音の空間的次元は忘れられたり無視されたりする。そのように作曲された曲が演奏されるコンサートホールのほとんどは、観客が動き回ることができない。作品を聞くときには、耳を突き出して、自分で、そして自分のために作品を発見し、再構成しなければならない。ジョン・ケージによると、作曲することと演奏すること、そして聞くことは、3つの異なった行為である。不確定性という性質は、3つの行為のそれぞれに特有の「努力」を要求する。しかしその「努力」は、抽象的にしか実践できない。つまり、聴衆の精神の中だけで。音響空間は、一度演奏者の席を決めたら二度と動けないオーケストラのためにのみ考案されたものだ。

このような状況はしかし、決して世界中どこも同じというわけではない。18世紀以来発達してきたヨーロッパ音楽に特有のもので、今日「真面目な」ものとされている唯一の芸術だ。もっともバロック音楽の中には、複数のアンアンブルを使い、それぞれ距離を取って配置し、エコーを起こさせるように作られたものもある。モンテヴェルディ(1567ー1643)は、作曲の一部を即興に任せただけでなく、演奏者や歌い手たちに、曲ごとに位置を変えるよう指示している。モンテヴェルディは、コンサート空間の中で音の出所を変えることがいかに重要か、よく理解していたのだろう。ルネッサンス以降、空間の中に音を配置する実験に興味を持つ者がだれもいなくなったとは言えない。しかし、音楽と他の芸術を隔てる壁はますます高くなり、時間の芸術と空間の芸術の領域をくっきりと分けてしまうことによって問題が見えなくなった。その状態は20世紀の初めまで続く。

不確定性は、空間においても有効である。音響空間は50年代から盛んに実験研究の対象となっていった。この観点から最も意味があると思われる催しは、ケージがブラック・マウンテン・カレッジで1952年にオーガナイズしたハプニング《アンタイトルド・イベント》(当時はまだハプニングについて語る者はなかった)である。これは、アントナン・アルトーの残酷の演劇と、その演出に影響を受けたものだった。このミクスト・メディアの催しでは、いくつかのアートが登場している。「演奏者」たちはダンサーでもあり、空間の中に広がっていく。1958年に〈ブリュッセル国際博覧会〉で〈フィリップス〉のパビリオンをル・コルビュジエと共に受け持ったクセナキスは、双曲放物面を研究し、中に独創的な音楽を入れた。

音響のエレクトロアコースティックな技術の発展によって、少しづつこの種の実験を行いやすくなった。1969年の〈クロス・トーク〉フェスティバルや1970年の〈大阪万博〉は、このような実験を行う場でもあった。〈クロス・トーク〉の企画者だったロジャー・レイノルドスと秋山邦晴は、新しい美学を決定する建築によるホール、そして観客がフェスティバルの様々なイベントに応じて音と映像を自分で発見するために動き回れるようなホールを求めた。〈Expo'70〉、一柳慧や湯浅譲二らがマルチ・音響チャンネルによる特殊な音の空間を創造し、シュトックハウゼンの球形のパビリオンは、SF小説のような音の実験室となり、訪れた人の想像力を刺激した。

マルセル・デユシャンとフレデリック・キースラーは、どんな作品であれ、作品の空間が重要であることを明らかにしていた。デュシャンはまず《大ガラス》を作ることによってその問題を明確にしたし、キースラーは私的、公的な空間の内部を作るとき、この原則を応用した。山口は早くから評論の中で、日本の伝統的な空間文化との深い関連について指摘している。最もわかりやすい例は日本家屋である。仕切りの役目を果たしている障子や襖は動かせるし、取ることもできる。ほとんどの家具は位置が決まっていない。寝具はおしいれの中に仕舞えるし、テーブルは折り畳むことができる。このような柔軟性は空間使用の選択の幅を広げ、結果としてより自由な動きを可能にする。

このような指摘は、まずいくつかの平面作品にあてはめることができる。例えば16世紀に描かれた《洛内洛外図屏風》を見てみよう。細かく書き込まれたたくさんの場面はすべて自律していて、京都の洛内と洛外の様々な日常風景を伝えている。同時に起こっている無数の状況として描かれているのだ。見る者の目にヒエラルキーや特別な順序を強制するどんなパースペクティヴもない。どのように見るかは決まっていないし、決められるものではない。見る者はどの部分にでもランダム・アクセスができる自由を享受する。山口は大胆にも、この種の屏風絵は「絵画」という範疇には入らないと言い切っている(山口勝弘:「絵画ではない日本の屏風絵」、『メディア時代の天神祭』、東京、美術出版社、p.224.)。「映画が暗い劇場のなかで、沈黙した個人の集合観賞の対象になってしまったのに較べて、この屏風絵のもつメディアとしての機能は、それよりはるかに見る側のコミュニケーションの形態として、開かれていたのである」(山口勝弘:『メディア時代の天神祭』、p.227)。

戸外を歩くと、日本では「不確定性」の例を多く見つけることができる。庭は複数の組合せが可能であり、たった一つの方向や角度が決まっているわけではなく、頭で予め分析できるようなシンメトリーやパースペクティヴもない。それぞれの視点は一つとして同じではない。見る者は空間の中を歩きまわりながら、自分で建築を構成し直さなければならない。作品の構築は「開かれて」いる。それをパフォーマンスによって完成させるのは、観客自身である。

しかしオーギュスタン・ベルクは、日本の空間の自由という観念に反駁している。「まとまって、統制された」日本社会の堅さとそぐわないというのだ。「この偶然性は、細心に計画され、考案され、体系化されたものだ。無秩序を称する秩序、それは二重に秩序である」(Augustin Berque:『Vivre l'espace au Japon』、Paris、PUF、1982年、pp.142-144)。だがベルクは仏教の教えの一つである「無常」を引き合いに出して筆を和らげる。「家は、人生がそうであるように、仮の宿である。全ては生成流転の中にあり、生成流転は不確定で予期できない。人はそのほんの短い部分、つまり今目にしているものしか知ることができない」(Augustin Berque:『Vivre l'espace au Japon』、p.143)。

ベルクは、空間を「行動的」で「内的」なものとした井上充夫の文章に依拠している(井上充夫:『日本建築の空間』、東京、鹿島出版会、1969年)。「視線は同時ではなく次々に移っていくのが望ましい。内面性という印象が強まる。(中略)それは還元できない固有の論理に従って展開する内面の場所生成過程 (topogenese) である。」(Augustin Berque:『Vivre l'espace au Japon』、p.144. )空間は全体的なプランによって展開するのではなく、その場その場で展開する。「日本の空間の大きな美点は、人間に不規則さ、でこぼこしたものを与えることであり、その場に存在することを可能にし、それぞれの瞬間に生きることによって、時空間の流れの中に身を置くことを可能にすることである」(Augustin Berque:『Vivre l'espace au Japon』、p.145)。

このように予期できない状況に置かれることが、必ずしも自由を制限されることになるだろうか?それが建築であって、何もさえぎるものがない砂漠でないかぎり、柱や壁は、取り外し可能でも、とにかく位置を決めなければならない。庭の場合は構築物だけでなく、木や石や池の位置も問題になってくる。したがって問題は、美学的な感情が生まれるように、自由と制約の間でバランスを取ることである。

芸術の展示であれそれ以外の展示であれ、展覧会でしばしば失望させられるのは、一つの展示室から他の展示室へと一方向に歩きながら、冷たい壁や台に同じように並べられた絵や物を見なければならないということだ。配置が悪ければ、中身を受け取るのも難しくなる。少なくとも二つの要素を考慮に入れなければならない。一つは照明と色であり、もう一つは強度である。特に絵画の場合、色を決めるのは照明の性質である。もう一つは物を見る空間の管理である。

空間の管理があまりにも単調だと、訪れた人の精神の柔軟性を保つのが難しくなる。新鮮な驚きを保つために、同じ状況の繰り返しを避けなければならない。山口はここで「不定形な歩き方」(山口勝弘:『不定形美術ろん』、p.33)を提案している。訪れた人に何があるかわからないという緊張を持ちながら作品を発見する機会を与えるのである。この方法で展示を行えば、疲労はあまり感じられない。精神が目覚めたままでいるからだ。予期できないことによって必要となる「努力」は、芸術だけでなく私たちの環境の中で起こるすべての出来事を受けとめるための必要な条件となる。