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そうだよ、コレなんだよ!
 そのひとに会って、いきなりサバンナに立たされたような気がしたのは、これまでの人生で西江雅之さんしかいなかった。裸足の文化人類学者などと評されていたが、天才少年がそのまま老いたような無垢のlonerだった、どこにいてもひとりで立っているという孤絶感を薄いシャツのようにまとっていて、それを苦にすることも他人に押し付けるということもなかった。つまり皮膚の外は、すべて異境だということを骨がらみで知覚している、野生の人だった。この人だけは死なないんじゃないと、勝手に思い込んでいたが、そんなことがあろうはずもない。*西江さんが、教えてくれたことのひとつに、西洋の楽器と、アフリカの楽器の違いということがあった。西洋の楽器は精度をめざしていて調律もされるし、演奏もミスタッチをしないように神経を研ぎすますけれど、アフリカの楽器には最初から胴に砂を入れておいて、ノイズが生まれるようにしてあるというのだ。正確さも、厳密さも、うっちゃってしまったところで、奏でられる音楽!ミャンマーの民族音楽を聴いたときに、そのことを思い出した。
 Beauty of Traditionは、一種のダイヴィング映画じゃないかと思う。すごく身軽に、それこそダイヴィングマスクとフィンだけで、深海に潜っていって、そこで何かをみつけてしまう、というような。そこにあったのは、巨大なアコヤ貝そっくりのヘンテコな楽器サインワイン!なにしろ、21コもの太鼓をたばねたような構造なんだから。その音というのが、それこそ鯨の歌声のように、とてつもなくのんびりしてる。もちろん、ミリ単位で調整されているけれど、奏でられる音はうねる千の波さながらに、多彩でふっくらと豊かだ。*導入の移動撮影は、ちょっとスコセッジの’’ラスト・ワルツ’’のようで、それだけで引き込まれてしまった。ドキュメンタリーというと、ちょっと肩肘張ったようなところがあるけれど、この映画にあるのは好きなものに近寄って行こうとするナチュラルさだ。むこうが微笑んでいるから、こちらも微笑んでしまう。こちらのやわらかい態度によって、むこうも壁をつくろうとしないで、あけっぴろげになる。そういう交歓が、この映画のチャーム(魅力)で、音楽的にいえばgrooveになっていると思う。*いま、マスコミでやたらにミャンマーを採り上げるけれど、たいていは経済的な切り口で、つまり新しいマーケットとしてのミャンマーが気になって仕方がないということがあからさまだ。それに比べるのもどうかと思うが、手持ちの小さいvideoで、会話するように撮影しているクルーには、そういう「さもしい魂胆」はゼロだ。
 いきなり異境に入り込んで、コレは貴重だから残さなけりゃいけない、ついては、われわれが記録してあげる、というようなおせっかいも、エラそうなところもなくて、現地にいた同志とコラボレーションしながら、一大プロジェクトを淡々と進めてしまう。そういうところが、この映画の上品さで、これこそは音楽の薫陶というものだろう。ジロジロと注視するということをしないで、ビクターの犬みたいにウットリ聞き耳を立てている!
 たしかに見たこもない楽器だ。聴いたこともない音楽だ。でも、なんだか無性になつかしい。大地があって、木々や草花が生えていて、川が流れていて、風が吹いて、ニンゲンが生きている、そういうところであれば自然発生するであろう音楽だと、ナットクする。譜面はないのだから、これは音で編まれた口承文学のようなものかもしれない。話し手によって、微妙にズレていくけれど、ひとつの物語そのものは伝承されて行く・・・。
 ついこのあいだ、下北沢のライブハウスでもミャンマーの民族音楽を聴くという機会があって、始まる2時間くらい前から、そこの入り口のそばのカフェで時間をつぶしていた。演奏するらしいミャンマーの人たちが外でタバコを吸っていて、大きな木の下だったこともあって、いきなり異国の風景があらわれた。その人たちは、こちらを遠慮なく眺めていて、その眺め方は東京にはついぞなかったものだった。そばに行って、できることなら話をしてみたいとムズムズした。*おそらく、現地で撮影した万琳はるえさんも、そんな気分でvideoを廻したんじゃないだろうか?
 西江雅之さんが、もう一ヶ月でも長生きしてくれて、この映画を観てくれたなら、無防備なくらいニコニコして、そうだよ、コレなんだよ!と大きな声でいってくれたことだろう。(佐伯誠/ライター)
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