ちえんそうにかえろ
五十嵐 宥樹

「ちえんそうー宣言」

出遅れてもなお、先延ばし
土地とのつながりあるのやら
死ぬまで生き抜く知恵がほしい


グローバルサプライチェーンとは位相の違う、どローカルな供給網が出来たらいい。

捉えきれないほど大きくなった 世界的なモノの流通網。生産と消費の輪っかは地球を何周も取り囲むほど膨大で、グルグルと回り続けている。⻭を食いしばってそれを駆動しているのは、誰で、恩恵を受けているのは誰か。それは、自分が爺さんになっても変わらないのか。

トレーサビリティなどなくても、認証制度などなくても、わかる範囲で、あればいい。友人が育てた野菜を食べ、自分が伐り、割った薪で冬を越してもらえたら。生活必需品の一切を賄うことは不可能でも、生産と消費の輪っこを、手元、足元に手繰り寄せながら生きてみたい。自給自足や、コミューンとはすこし違う生き方を模索する。

自分は木を伐る。その木で椅子を作れるヤツがいて、それに相方が座面を張る。無農薬有機野菜をつくる人がいるかと思えば、牛屋さんも向こうで手を振っている。伝統工法が好きな大工がいて、味にうるさい鹿撃ちがいる。その殆どがみんな、その卵にすぎない、駆け出しや見習いの若造だけど、頼もしい仲間が少しずつ集まり、胎動している。あるいは、よちよちしたり、つかまり立ちをしたりしている。
それぞれの業をもちよれば、健康で、文化的な、最低限度の生活を営むことができそうだ。寒い北の大地でも、凍えず、くいっぱぐれることなく、年を重ねることができるかもしれない。主食の米や、パンだって食いたい。たまには蕎⻨も。まだまだ仲間がいてほしい。

スロー何某とか、丁寧な何某とか、ライフスタイルとか、よく知らない。アイツの大好物がビッグマックだったとしても、そんなことは彼氏の勝手だとか。時代の流れは早い。そしてどんどん加速する。こちらは遅延がベースなので、基本的に周回遅れ。時代遅れでかまわない。一周回って最先端。そんな、気持ちで靴を履く。今日も働いて、汗をかく。

⻄日が差して、片付けをして、カラスが鳴いたら、ちえんそうにかえろ。



「紙か木か」

300年前に作られた椅子が、修理を待っているのに出くわした。東北のとある工房で。 これから、職人の手で座面が張り替えられ「現役」として復活し、人の手に渡ろうとしている。木部の樹種が、何であるかまではわからなかったが、この木の存在している時間のなんと永いことか。

ごく当たり前の話として、山に生える木は生きている。光合成をして呼吸をし、他の木と菌類を通じたやり取りをして、生命活動を営んでいる。

樵は、木を切り倒すのが仕事だから、木の命を絶つのが業と言い換えることもできる。初めて市場に出す木を切らせてもらった現場で、その重大さに戸惑ったことを思い出した。 先達の樵によって植えられ、自分よりも長く生きているトドマツを切り倒す。目の前に横たわった長く大きな木の枝を払う。太さ、曲がり、腐れに応じて、丸太に分ける長さを決めていく。

8尺に伐ればパルプ材、12尺に伐れば建材になった。健康で通直な幹であれば迷いが少ないが、幹曲がりや断面に腐れがあると、判断に迷い、建材になれたかもしれない立派なパルプ材をいくつも作ってしまった気がする。

倒した樹木の「第二の人生」を決めるのは他でもない自分だった。

極端な言い方をすれば、自分が殺めた命が、人が暮らす家になるのか、ケツを拭く紙になるのか、決める権限が、樵にはあるのだ。そのことに慄いた。この気持ちに誇張は一切ない。大袈裟と思う向きもあるかもしれないが、それくらい、材として切り倒す樹木は、存在として大きい。
北海道は、150年近くにわたる収奪林業の結果、大木と呼べる気が本当に少ない。家具材として利用されることの多い広葉樹も、事情は同じである。

で、あるならば。樵としては、丸太作りの過程においては正しい感覚と判断で、家具や建材になれる丸太を「ちゃんと」生産する、というのが当たり前のマナーである。樹木に対しても、山主に対しても。

便所紙として流された紙は、人間の糞と共に焼却されて、その灰はセメントの原料になるようだ。私が便所紙にした木は土へは還れない。次世代の樹木を肥やせない。

私はこれから何百、何千もの樹を伐るのだろうし、その行き先だって、単純ではない。実際には、1本の木から建材とパルプ材の両方が取れることのほうが多いし、払った枝や残された梢はその場で土に還ったり、バイオマス燃料として熱に変わったりすることもある。

けれど、300年遺され、生まれ変わって活躍せんとしている椅子の木部を前にしては、沈黙して、初めての現場を思い出し、考えざるを得なかったのだ。そのように在り続ける木があるということを、駆け出しの私は死ぬまで忘れてはいけないと思う。
プロフィール : 五十嵐 宥樹
94年、福島県生まれ。
北海道に来て探検部に7年在籍。
卒部後は山仕事に魅せられている。