Darkness Tokyo
Jun Kawabata
2019年12月、クリスマス前にフランスのアンティーブに行った。地中海に面する海辺の町、アンティーブは雨の日が続き、観光客らしき人はほとんどいなかった。ピカソ美術館には僕だけだった。この地方の赤ワインは美味かったのだが、海はずっと荒れていた。

すべてが始まり出す頃だった。

出発の前日は浅草にあるもう一つのタワー、『東京スカイツリー』の麓にある街、向島で飲んでいた。僕はこれを『浅草タワー』と密かに呼んでいる。ここから浅草方向に一本の道が伸び、言問橋がある。帰りのタクシーの窓から見た本家、芝の『東京タワー』は冷たい空気の中、赤と緑のイルミネーションに輝いていた。酒を飲んでいて気分は良かった。僕は東京で生まれてここで育った。小さい時から妙な焦燥感に苛まされ、いつも居場所がなく疎外感を感じていた。みんな知らなくてよその人で、話すきっかけがどこにもないみたいな強迫観念だ。だから僕は結婚式とかパーティが好きではない。

『遠い記憶の中にある東京』は穏やかな午後の陽射しの中にあった。時々それが何かの拍子にふっと現れ、ホッとする。

2019年12月31日の深夜、有楽町にいた。日本の『大晦日はどんな感じなのかな』と興味を持ったのだ。駅前のコンビニには中国人がいっぱいいた。ラーメンとか焼きそば、オムライスとか安い弁当を買っていた。へー、彼らもこういうものを食べるんだと感心した。広場も中国系の人たちで溢れかえっていた。ここはどこか外国の大晦日みたいだなとも思った。なぜか寂しい夜だった。

2020年1月に入り、中国、武漢の細菌研究所からコロナウイルスが漏れたのではという報道があった。人がバタバタと倒れたり、嫌がらせでエレベーターのボタンに唾を吐いている映像を見た。(人にウィルスを感染させるためなのか)マンションの住民たちが感染者の家のドアを外から木材で塞ぎ、出れないようにしていた。そんなことまでやるんだ。そして、武漢の町は閉鎖され外出禁止となった。

少しずつ何かが始まっていた。

やがて、日本でもパンデミックが始まり多くの人がマスクをし始めた。
マスクは効果がないと言う医者もいたのだが人にうつさないためにもマスクをしなさいとテレビは言った。いつも同じ顔をした医者がコロナの恐ろしさを泣きそうな顔でテレビで訴える。『やがてエクモは足りなくなる』と。次第に無言の圧力、恐怖が強制力となリ、多くの人はワクチンを何事もないように打っていた。国民の80%が打ったらしい。世界で一番打ったらしい。こうやって人は簡単に従っていくんだ。中国人は来なくなっていた。浅草はガランとし、路地や飲み屋から人が消えた。

2020年1月30日にコロナの緊急事態宣言が出され、テレワークが始まった。そして、ワクチン接種が始まった。2020年のオリンピックは1年延ばしで2021年夏に開催された。不思議だったのはあれだけ多くの人が集まるのに平然と開催されたことだ。やらなければならないという何かしらの意図を感じた。こんな時にオリンピックか。この間、コロナ感染の話はほとんどニュースにならなかった。感染した話も少なかった。そして大会終了後に色々と膿が出てきた。
2022年はBA.5変異株(オミクロン)の感染が広がり、諦めたのかウィズコロナへと舵が切られた。ブレインフォッグという頭にカスミがかかる後遺症が出る人もいた。僕はいつも頭に霧がかかっている。ゼロコロナ政策の中国ではロックダウンが実施されたところもあった。しかし、失敗したみたいだ。

2023年3月13日よりマスクは個人の判断となり、5月4日に緊急事態宣言は終わった。感染より経済という感じだった。そして、中国人観光客が再び来るようになった。逞しい生命力だ。でも、気のせいか飲み屋に客は戻ってきていない気がする。僕はこの年の7月末にリスボンでコロナに罹患した。ロシオ駅横の丘の上で一人遠くの海を見ながらここからポルトガルは世界制覇に船出したのだなとボオーッと考えながら、飲んだサグレスビールは美味かったのに。翌日、アルゼンチン産のステーキを食べたあたりからおかしくなった。帰りの飛行機の中で熱が出てうなされるなか、韓国人の男が通路に出てきて、『この腎臓を持って帰ってくれ』といっぱい渡される妄想をみた。

2024年夏にはCOVID19、新型コロナはほぼ終わり、次のウイルスが出てくる予感だ。世界も急激に変わった。アメリカ、ウクライナ、ロシア、イスラエル、パレスチナ、レバノン、イラン、ハマス、ヒスボラ、フーシ。戦争で多くの人がいなくなった。テレビのニュースもインターネットもどれも言うことがまちまちで、何が本当のことなのか分からない。新聞はもう読んでいない。小さい頃、婆さんが言った。アメリカとの戦争で、新聞は『勝った、勝った』と嘘を書き続け、国民はみんな騙されたのだと。婆さんは来たる本土決戦で鬼畜米兵に竹槍で立ち向かうためにの特訓を女学校でさせられていた。ばかみたいだと言っていた。そんなもんでB29に対抗できるわけないとも言った1945年3月10日、浅草は下町大空襲で344機のB29が空を埋め尽くし焼夷弾でみんな燃えた。二時間で33万発の焼夷弾。その後の山の手の空襲と合わせて東京の市街地の50.8%が消失した。そんなに燃やすな。隅田川の言問橋では向島へ逃げる人と浅草に逃げる人で溢れかえり、橋の真ん中でにっちもさっちも行かなくなリ、みんな動けなくなった。そこにB29が焼夷弾を狙い落とし、燃えて熱さに耐えられず川に飛び込む人、火の粉が飛び散る中、もがき苦しみ、助けを求める人がいっぱいいた。言問橋では1000人が亡くなった。街の中では炎が津波のように音をたてて押し寄せ、上野から駒形へ火の粉が急流のように流れ、多くの人を焼いた。遺骸は、黒焦げになったマネキンががいっぱい積み重なっているように見えたらしい。橋を渡る時それを踏まずには先へ行けなかった。どこからかお経が聞こえてきた。その日は風が強く、それも災いして、一晩で10万人が亡くなった。

翌日、政府は言った。『空襲を恐れず、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ』みんなで火を消せということだ。火を消すための水を入れたバケツリレー。それは国民の義務だったらしい。そして、多くの人がいなくなった。

広島
長崎
東京大空襲
地獄絵図
ゲルニカ

世界は泣いている。

これらの写真はパンデミックの少し前から2024年11月まで、浅草を中心に東京を撮影したものである。

2024年11月。
いつものホームレスはいなくなっていた。

Darkness Tokyo
Jun Kawabata
    01. Airplane Dark Side
    02. Follow My Dream of Rock and Roll
    03. Soccer Field After the Rain
    04. Sonatine
    05. Run Through the Night
    06. Good Luck
    07. Invisible - Another Rainy Day in Olso
    08. Hash
    09. On the Hill
    10. Jet Over the Industrial Zone
    11. There are no Homeless People Who are Skinheads
    12. Sunny After the Clouds Pass - Ending

Credit
Yokotaro [ A Guitar E Guitar 6 7 8 ]
Toshikatsu Uchiumi [ E Guitar 9 ]
Tsunehiro Murakami [ E Guitar 12 ]
Michael Kato [ English language consultant ]
Freidrich Hossmann [ Poem & Poetry Reading From Norway ]

Jun Kawabata [ Piano Moog Arp Synth Voice Percussion ]
All music composed & arranged by Jun Kawabata

Photograph Jun Kawabata
Mastering Hideki Ataka
Designed by Wataru Yoshioka
Produced by Jun Kawabata
Airplane Label Tokyo 2025