映画について

古舘徹夫


区別しなくてはいけないのは、映像と映画だろう。
勝手に例えると信仰と宗教のようなものだろうか?無垢で純真で清潔なマテリアルは個々人の信仰かのように映像にあり。金銭にまみれの貪欲さで、おまけに強大な権威にあこがれ、世界支配を渇望してしまうかもしれないほどの不穏当はマテリアルを集合化した宗教のように映画にある。
(アメリカが映画を国家産業の柱のひとつにしていることも、あながち穿ちがたい共通項だ。)

映画は創世の当初から世界の侵犯を考えていたし、世界を創造したいという神のような欲望に突き動かされてきた。他のアートでこんなに強靱で危険な攻撃性を持ち得たものはついぞない。
メリエスの月世界旅行が上映されて間もなくの数年のうちに作り上げられたグリフィスのインテルビスタ。ガンズのナポレオン。などなど枚挙可能な世界征服を夢見た者はすべて、チャプリン、ワイルダー、ラング、カザン、ウエルズ、キューブリック、ゴダール、コッポラ、無心に映画を愛しるような素振りを見せるスピルバーグももちろん大衆に対して専制君主振りを発動し続ける。

映画が多数化と文化圏の侵犯と拡張をその目的にしていることが容易に理解できるように我々は映画を語るさいに常にその生産国とその文化圏について確認しあう。その兵略を理解しなければならない。

インド映画がいまだに独立を守りつづけているのは内需に対する確信が強いからだろう。ヨーロッパ圏及び日本、アジア圏ではアメリカ映画に対するパルチザン的様相が強かった。日本映画の危機が叫ばれていたのはもう20年以上も昔からだが、ようやく反撃の兆しが見えてきたのか?隣国の韓国映画は米国から植民地政策の方法を追認することによって地域の保持権を取得し、解体してしまったソビエト映画にいたってはロシア映画としても目撃するすべもない。

さて、映画がそのために選択した戦術とはどのようなものだろう?
これはあらゆる文化構造が基盤を形作る時と等しい方法で、反復と重複の繰り返しによる積み上げである。
気も狂わんばかりに反映を繰り返すヴァリエーション。いつまでも終演することのないヴァリエーションとヴァリエーションの重複。オリジナル/マテリアルが重ね合わされたガラスの向こう側に見失うかのようなヴァリエーションの積み重ねが、映画作品のひとつひとつを生産さを可能たらしめる。ヴァリエーションの量産によって文化圏は組織され、法を制定し、土壌を肥えさせ、地層を確定させる。このことによって得る領土は映画に過大な攻撃性を確保せしむる。

では、音楽はどうなのか?
音楽それこそまさに反復とヴァリエーションの衝動。
ヴァリエーション群のレゾナンス?

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