in memory of peter beard

 

響きと怒り sound and fury-1

2022年1月11日

 

ある生物の自己保存本能が、摩滅すればするほど―とまでは言わないにしても、頼りなげになればなるほど、私たちはその生物に愛着をおぼえるものだ。(シオラン)

バンガローの入り口に、大きな半円形のカウンターがあって、木彫りの看板がつるしてある。Harry’s Bar たいそうな名前だ。大きな背中の男が隣り合ってカウンターに肘をついている。二人が猫背になって啜っているのは、オリーブ入りのマティニーらしかった。通りすがりに、ナイトサファリで豹を見たと聞こえよがしに話しているのが耳に入った。食堂にいたサファリ客たちも、NYのグランドセントラルのオイスターバーにいそうな連中ばかりだった。もっとも、狩猟は禁止されているから、銃をかかえてうろつくハンターはいなくなった。硝煙や血の匂いはすっかり消えてしまって、顎のほっそりした女性たちが胸元にはたいているオー・デ・パルファムの香りがバターやチーズやワインの香りとごちゃ混ぜになって立ちこめている。

腹ごなしに外へ出ると、焚き火がたいてあって、椅子がおいてある。少しずつ目がなれてくると、サバンナが青い海原のようにひろがっている。遮るものがない青一色の世界だ。ロンドンから持ち込んだシングルモルトの瓶を置いて、グラスに注いだ。焚き火の燻った香りが、ウイスキーを花ひらかせる。噛みしめると、泥炭にしみた海水の匂いもする。気がつくと、右手の奥に闇に溶けこむ黒い影になったマサイらしい長身の男が立っている。槍一本で、ライオンのいるサバンナを歩いているマサイにちがいない。夜になるとうろつき始める肉食動物たちが襲ってこないよう不審番をしているのだろう。ウイスキーを飲み干して、グラスの底のしずくを火へと放った。ゆらめく焔が大きくふくらんだ。

テントにもどって、如雨露をかけるようなシャワーをあびて、寝袋にもぐりこんで、昼間も読んでいた文庫本の一章だけを読んで、灯りを消した。眠りについて間もなくからだが火照ってきて、寝汗をかいていた。うとうとしながら、寝しなに読んだ文章にあった、バトパハの辻に立つ水売りの屋台へふらついて行って、白い花を浮かせた氷水のコップをつかもうとするが、どうしてもつかめない。もどかしさに叫びそうになって、目が覚めた。テントの外にハイエナだろうか、堪え性のない吐息が動きまわっている。

その日の午後に、ナイロビ郊外にある動物孤児院 Nairobi Animal Orphanage へ行った。傷を負った野生動物を収容してケアをして快復させたら、サバンナへ戻してやる施設だ。親を失って、孤児になった動物を収容することも多いという。中にいたのは、一頭のチーターだけで、拍子抜けしたが、しなやかなチーターの動きはずっと見ていても飽きることがない。縛られている予定もなかったので、たそがれが落ちてくるまで眺めていた。そのチーターはどこに損傷があるのか、歩行を見ただけではわからない。なんらかの失調をかかえたチーターは、手厚くもてなされてすっかり浄化されると、なにもなかったようにサバンナに戻される。深い眠りについてしまうまで、夢の中でチーターは柵の中を大きな円を描いて走り続けた。

翌日、クルマで訪ねたのは、小さな教会だった。木のオモチャのような粗末なつくりで、日曜だったからか、子どもたちがいて、そのうちのひとりが覚えたてなのか、手旗信号をやってみせてくれた。素足で大地にふんばって、ほっそりとした手でハサミのようにジョキジョキ空気を切り裂いてみせる。なんの返礼も乞わない思わぬもてなしにうろたえた。その教会のそばにひとかかえの灌木があって、陽にさらされたせいか白っぽく色褪せてしまっている。しげしげと指先で枝をすくい上げると、バラのような棘だらけの枝の先っぽに、白い綿を巻きつけたようになっている。小さなアリが出入りしていて、空き巣のようでもあるし、抜け殻のようでもある。しげしげと見ていたからだろう、ドライバーのカプール氏が説明してくれたーアリと共生している植物で、空洞を風がぬけるとヒューッと音を立てるんだよ。だから、whistling treeというんだ。

カプール氏は、子どもが五人いて、四時間かけて家からやってくるのだという。その顔には深い皺がきざまれていて、サバンナの地表のように乾ききっている。ふたりして、地平線のむこうに雲が立ち上がっているのを眺めていた。大地を叩いて、サバンナに雨は降るだろうか。

響きと怒りsound and fury-2

 
 

《プロフィール》

さえきまこと【佐伯誠】文筆家